その161 したたかに生きた「ねね」の生涯

 1582年(天正10年)に起こった「本能寺の変」については皆さんよくご存じのことと思います。
 明智光秀が謀反を起こし、京都本能寺に滞在する主君の織田信長を襲撃した事件です。
 秀吉は信長の仇、光秀を「山崎の戦い」で討ち、豊臣政権を構築する契機としました。
 次に秀吉は、長濱から大坂に転居することを考えていました。大坂は経済的に急成長を遂げており、また大坂には寺社勢力の代表格ともいえる石山本願寺があります。
 石山本願寺は、寺領と呼ばれる税金が免除された土地を各地に持ち、大勢の門徒を抱えていました。その莫大な財力に加え、公家への働きかけ、さらに大名と親交を結ぶことで、一大勢力を築いていました。そこに入城するのですから大変です。

 そのような状況下においてネネは、石山本願寺のトップ顕如の妻と連絡を取り合い友好関係を築きました。その甲斐もあってか翌1583年、大坂城の建設が始まり、秀吉とネネが入城する時にはまったく混乱はなかったとのことです。
 こうして秀吉は、信長の天下布武の遺志を継ぎます。

 1585年(天正13年)、秀吉は天皇家の関白、つまり天皇を補佐した行政の権利を持つ官職に就きます。しかし秀吉は将軍職への着任は辞退しました。
 これもネネの差配によるものと思われます。ネネにとっては夫が関白になることは、将軍になることよりも有難い選択なのです。
 秀吉の関白就任とともにネネは「北政所」という摂関家の正妻の呼称が与えられ、同時に、従三位という極めて高い官位を得ることができました。
 推定年齢、ネネは数え38歳、秀吉は数えで50歳くらいでした。

 関白となった秀吉と北政所となったネネは、京都にも屋敷(聚楽第)を構え、独自の統治形態をいっそう強固なものにしました。
 秀吉とネネは、将軍家として武士の頂点に立つことで統一を成し遂げるのではなく、日本に古くからある朝廷や皇族の権限をうまく利用しながら、統治者としての力を伸ばしていきました。そして1590年(天正18年)頃までには、日本列島の大部分が豊臣の政略網の中に入ることになります。

 1598年(慶長3年)、秀吉が死すもネネは依然として北政所と呼ばれながら、公家として能を鑑賞し、神楽という宮中芸能を催したりしていました。
 秀吉の死後、徳川家康が台頭してからも、ネネが築いた多方面の縁戚関係、豊臣秀頼の母、徳川秀忠(家康の三男)の義理母、天皇の義理母という、いわば無敵ともいえる社会的地位にいました。

 これまで通説では、ネネは豊臣側の人間であり、豊臣家の存続に加担するのが当然であるのに、豊臣を裏切って徳川の肩を持ったとされてきました。
 しかし、豊臣家の一員である以上に名だたる武将たちの「母」として、財力のある「個人」として、「家」に属さない独立した唯一無二の存在として、1624年(寛永元年)、77歳で没するまで、したたかに戦国の世から徳川治平の世を生き抜きました。
 『日本史を動かした女性たち』(北川智子著)を読んで豊臣秀吉の妻ネネのしたたかに生きた生涯が生々しく伝わってきました。
つづく

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