通説によれば、戦前わが国には「言論の自由」はなく、敗戦・占領と同時に連合軍によって「言論の自由」が与えられたことになっています。
たしかに昭和11年(1936年)の「二・二六事件」以降、統制経済、言論の自由弾圧といった全体主義的な政策を推進していく事態となりました。
しかし終戦後、連合軍の占領下にあったわが国では、戦前・戦中に勝る言論統制が行われていたのです。
以下、『閉された言語空間 -占領軍の検閲と戦後日本-』(1993年9月・文春文庫・著者:江藤淳著)を引用させていただきます。
この『閉された言語空間 -占領軍の検閲と戦後日本-』は、作家・江藤淳が「国際交流基金」の派遣研究員として1979年(昭和54年)10月から1980年(昭和55年)6月までの9ヶ月間、米国ワシントン市にあるウィルソン研究所で行った検閲研究の集大成です。
この本は、この世の中に類書というものが存在せず、日本はもとよりアメリカにも、米占領軍が日本で実施した秘匿された検閲の全貌を一次史料によって裏付けるものです。
同書では、米占領直後の検閲について、
≪実際にはミズーリ号での降伏文書調印から2週間も経たぬうちに、1945年(昭和20年)9月14日午後5時29分を期して、まず「同盟通信社」が占領軍当局から24時間の業務停止を命じられた。そして翌15日正午、業務再開を許されたときには、「同社の通信は日本のみに限られ、同盟通信社内に駐在する米陸軍代表者によって100パーセントの検閲を受け」ることになっていた。≫
同社は、同年10月31日に解散し、業務は翌11月1日に発足した「共同通信社」と「時事通信社」に引き継がれたとのことです。
つづいて、
≪「朝日新聞」は、同年9月18日午後4時から9月20日午後4時まで、48時間の発行停止処分を受け、英字新聞「ニッポン・タイムズ(The Nippon Times)」9月19日午後3時30分から同月20日同時刻まで、24時間発行を停止された。その他の新聞も占領軍当局から回収を命じられ、断截処分に付されたりした。≫
このように新聞は、「*連合国最高司令官」という外国権力の代表者の完全な管理下に置かれ、彼の代表する価値の代弁者に変質させられました。
そして検閲は、新聞などの言論機関を対象とした連合国最高司令官への「忠誠」を審査するシステムでありました。
*連合国最高司令官
第2次世界大戦後の連合国による対日占領の最高命令機関。機構上は極東委員会の下にあり、諮問機関として対日理事会をもった。 GHQ(連合国軍総司令部)はこの司令官の補助機構である。最初の最高司令官は D.マッカーサー。
(「ブリタニカ国際大百科事典」より)
≪かくのごときものが、あたえられたという「言論の自由」なるものの実体であった。それは正確に、日本の言論機関に対する転向の強制にほかならなかった。このとき以後、日本の新聞は、進んで連合国の「政策ないしは意見」を鼓吹する以外に、存続と商業的発展の道を見出し得なくなった。≫
としています。
今のマスメディアの偏向報道は、その時の流れを引きずっているように思われます。
この検閲管理は、占領期間のすべてを通じて行われ、
≪検閲の対象を(1)郵便(2)電信(3)電話(4)旅行者携行文書(5)映画およびスティール写真の5種類をあげている。このうち郵便のなかには、信書のほかに新聞その他の印刷物、小包、俘虜との通信および赤十字を通じて行われる通信が含まれ、電信・電話には、有線無線の電信電話およびラジオが含まれている。
また、検閲要員については、米軍将兵の投入を必要最小限にとどめ、米軍事要員の管理の下で現地人を検閲係として雇用する方針を打ち出している。≫
この「現地人」とは日本人のことです。敗戦をこれ幸いと戦勝国が行う占領政策に荷担するのは、戦前・戦中において反体制側の人物であることは容易に想像できます。
この検閲官が開封した私信は、次のような文言で埋めつくされていました。
≪…敵は人道主義、国際主義などと唱えていますが、日本人に対してしたあの所業はどうでしょうか。数知れぬ戦争犠牲者のことを思ってほしいと思います。憎しみを感じないわけにはいきません。(8月16日付)≫
≪昨日伊勢佐木町に行ってはじめて彼らを見ました。彼らは得意気に自動車を乗りまわしたり、散歩したりしていました。橋のほとりにいる歩哨は、欄干に腰を下ろして、肩に掛けた小銃をぶらぶらさせ、チュウインガムを噛んでいました。こんなだらしのない軍隊に敗けたのかと思うと、口惜しくてたまりません。(9月9日付)≫
このように、軍部への恨みでも自らの悔恨でもなく、敗戦の悔しさをにじませています。
日本人が「自虐史観」に苛まれるのは、その後、強権が発動されるGHQ(連合国軍総司令部)の言論統制と洗脳政策によるものです。
つづく