戦乱の時代が終わりを告げ、江戸の太平の世に入ると、武士は武者としての存在理由を失い、しだいに無為徒食の族とみなされるようになりました。
江戸前期の儒学者・兵学者であった山鹿素行は、武士は農民、職人、商人三民の上にいるにもかかわらず、農地を耕しもしなければ、物を作ることもしない。また物を売ることもしない。つまり、直接的な生産に従事しない。そんな武士の存在理由をどこに求めるかに思いを致しました。
そして素行は、武士の本分を
正しい人の道を実践し、三民の平安と生命を守る存在になるべきだ
と結論づけました。
山川健一著『幕末武士道、若きサムライ達』(ダイヤモンド出版)では、
素行は、支配階級である武士は他の三民の模範となるべく、正義を貫き、私欲に走らず、約束は命懸けで守り、名誉は死をもってあがなわなければならないとした。
武士の徳目は、忠誠、犠牲、信義、廉恥、礼儀、潔白、質素、倹約、尚武、名誉、情愛であり、武士は文武の徳知がなければならない。
と述べ、さらに、
武士道がその内に秘めた力をいかんなく発揮したのは、幕末から明治維新にかけての混乱の時代においてだった。今で言う高級官僚としての武士でははなく、食うや食わずの下級武士や農民出身の若者達が世の中を動かした。
坂本龍馬や高杉晋作、西郷隆盛、勝海舟や山岡鉄舟、そして新撰組の時代である。
これを幕末武士道と呼ぶことにしたい。
と記しています。
ここに突拍子もなく「幕末武士道」という言葉が出てきます。
先に「明治武士道」について述べました、が、特段に「幕末武士道」とか「明治武士道」というはっきりとした成語が存在したわけではありません。
そのほかには「戦国武士道」といったり「元禄武士道」と言ったりする場合があります。
言うならば、帝国軍隊の草創期にあって軍の統制と軍人精神の支えとしたものを「明治武士道」と呼び、幕末から明治維新へと平和裏に改革を進めた潮の流れを「幕末武士道」と称した、と考えるべきでしょう。
そして、群雄割拠する戦国時代の下剋上にあった時の趨勢を「戦国武士道」、はたまた、泰平の世に浮かれた元禄時代の赤穂浪士の義挙にこと寄せ「元禄武士道」と銘しました。
どうも、時代のフレーズを頭に冠し「○○武士道」と称するのは、その時世に賛美されうべき武士の気質といったものを表現する呼び名となったようです。
さて、前2回の『和気あいあいの剣術修行』『平和への光明』を含めここに登場する人物に深く根ざしているのは、この幕末武士道にほかならないと思うものです。
しかし同書では、新撰組を幕末武士道の中に含めながらも、
もっとも幕府側で戦った新撰組のほうは戦国時代に憧れる気分が強く、それで同じ尊皇攘夷でも薩長の志士達と対立することとなったのであろう。
と、やや異質な扱いをしています。
やはり新撰組には、「戦国武士道」の片影があり、新しい時代にそぐわぬニオイが嗅ぎ取られるからにほかなりません。
そして同書では、
幕末武士道の精神的なリーダーとなったのは、吉田松陰である
としています。
吉田松陰については、「その三十九『時間と距離』」と「その四十『一期一会』」でも取りあげましたが、吉田松陰といえば、萩の「松下村塾」の名がまず浮かび上がります。史実にもとづけば、
松陰は、安政元年(1854)のペリー艦隊再来に際し密航を企てアメリカ艦隊に乗り込むが失敗し江戸で投獄。その後、萩藩が身柄を引き取り野山の獄へ繋いだところ、同獄の囚人に孟子を講じて獄内の気風を一新させ、教育者としての資質を発揮する。
しばらくして出獄を許され生家預かりの身となるが、近隣の子弟で学び来る者が多く、その幽室が塾と化す。
それが松下村塾です。
そして、
安政5年(1858)、幕府が勅許を得ないままハリスとの間に日米修好通商条約を結ぶと、熱烈な尊王論者である松陰は、急に反幕府的言動を強め、ついには老中暗殺の血盟を結ぶにいたる。
一方、安政の大獄を強行した幕府は、松陰に疑惑の目を向け、安政6年に江戸伝馬町の獄に投じた。
松陰は、この機をとらえて訊問中に幕府役人をも感化しようと、幕政の混迷を批判し、老中暗殺の須要を余すことなく吐露した。
このために、松陰は斬首刑に処せられます。
司馬遼太郎著『世に棲む日々』(文春文庫)では、
松陰は革命のなにものかを知っていたにちがいない。革命の初動期は詩人的な予言者があらわれ、「偏癖」の言動をとって世から追いつめられ、かならず非業に死ぬ。松陰がそれにあたるであろう。革命の中期には卓抜な行動家があらわれ、奇策縦横の行動をもって雷電風雨のような行動をとる。高杉晋作、坂本龍馬らがそれに相当し、この危険な事業家もまた多くは死ぬ。それらの果実を採って先駆者の理想を容赦なくすて、処理可能なかたちで革命の世をつくり、大いに栄達するのが、処理家たちのしごとである。伊藤博文がそれにあたる。松陰の松下村塾は世界史的な例からみてもきわめてまれなことに、その三種類の人間群をそなえることができた。
と述べています。
松陰が松下村塾で子弟を教育した期間は、安政3年(1856)から安政5年までのたった2年間のことでしたが、ここから久坂玄瑞・高杉晋作・前原一誠・木戸孝允・品川弥二郎・伊藤博文・山県有朋という幕末・維新期に活躍した数多くの志士が巣立っています。
松陰は、辞世の句を
身はたとひ武蔵野の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂
と詠み、斬首役の山田朝右衛門にして「安政六年十月二十七日に斬った若侍はことのほか見事な死に際であった」と言わしめた松陰を、幕末武士道の精神的なリーダー、とよぶことに異存を差し挟む余地はなさそうです。
つづく