夏休みの一大行事、全日本少年少女武道(剣道)錬成大会が、7月23日(土)~24日(日)、日本武道館で開催され、全国各地からから両日合わせて861チーム4870名の少年剣士が勢ぞろいしました。
出場対象は小学校4~6年生(男女混成)で、各チーム対抗の5人制によるトーナメント試合によって行われます。
この大会の特徴は、ベスト8までは「基本判定」試合を採り入れているというところです。基本判定試合は、赤白チームそれぞれの監督が元立ちとなって、先鋒から同時に基本稽古(切り返し・打ち込み)を規定時間(40秒間)行い、3人の審判員の判定により勝敗を決めるというものです。
基本判定試合の基準が大会要項で示されていますが、それはともかくとして、全身を使って大きく、正確に、伸びやかに形が決まった基本稽古は、見ていて清々しい気持ちとなります。
またそれとは逆に、体全体がぎくしゃくし、竹刀の振りが角張っているというか、力感が先に立ち、動きがせわしなく見えるものは感心できません。
審判員としては、このように巧拙がはっきりした基本の内容であれば、迷うことなく判定することができますが、じっさい少年剣士たちの多くは、大会に臨むに当たって十分に練習を積んできているので、なかなか優劣の差が見分けにくいのが現実です。
しかしながら判定には、「棄権」あるいは「引き分け」の表示は認められないので、どちらか一方に旗を上げなくてはならず、「3対0」か「2対1」で必ず勝敗がつくこととなります。
基本判定試合の後は、引き続いて先鋒から1分間一本勝負による試合が行われ、先の「基本判定」と「一本勝負」を合計した勝ち数によりチームの勝敗が決します。
当然、基本判定で勝るチームが一本勝負でも優位であってしかるべしですが、必ずしもそのようにはいきません。
相手と差し向かっての勝負となると、どうしても技の応酬が切迫するので、基本稽古のように大きく伸びやかにとはならず、いきおい手わざ足わざの当てっことなってしまいます。
勝敗にこだわらず基本正しく仕合ってほしいところですが、まだそこまで基本技が身体に染みこんでおらず、致し方ないことかもしれません。
子どもたちの健やかな成長を願うものです。
いや! なにも、これは子どもたちだけに現れる現象ではありません。われわれ大人も常日頃からよっぽど心しなくては、〝間に合わせ〟の当てっこ稽古となってしまうということです。
このことに関して、およそ400年前に宮本武蔵は『五輪書』で詳しく述べております。温故知新、いま一度古典に学んでいただきたく一端をご紹介いたします。
先(ま)づ世間の人毎(ひとごと)に、兵法の利をちいさく思ひなして、或(あるい)はゆびさきにて、手くび五寸の利をしり、或は扇(おうぎ)をとって、ひじよりさきの先後のかちをわきまへ、又はしないなどにて、わづかのはやき利を覚え、手をきかせならい、足をきかせならひ、少しの利のはやき所を専(せん)とする事也。
(『五輪書』「火之巻」岩波文庫、渡辺一郎校注)
井蛙現代語訳を試みますと、
<まず世間の人たちは兵法の利ということについて、末梢的な技巧のみに走って、手首より先の利を知り、あるいは扇子を使うように肘より先(小手先)の技前にて勝負を論じ、又は竹刀稽古において少しでも速く当てることに味を占め、手わざ足わざを頼みとして、小器用で速さを求めることを専らにしている。>
となりましょうか。
さらに同書は次のように述べています。
我兵法におゐて、数度の勝負に一命をかけて打合ひ、生死(しょうじ)二つの利をわけ、刀の道をおぼえ、敵の打つ太刀の強弱をしり、刀のはむねの道をわきまえ、<中略>朝鍛夕練して、みがきおほせて後、独り自由を得、おのづからきどくを得、通力不思議有る所、其兵として法をおこなふ息也。
井蛙は、
<我が兵法においては、数度の勝負に一命をかけて打ち合い、生死の淵において刀の道をおぼえ、敵が打ちかかってくる太刀の強弱を知り、刀の太刀筋を会得し、<中略>朝鍛夕練し十分修業を積んだ後は、独りでに身動きの自由を得て、自ずから特殊な能力を得た、自由自在で超人的な不思議な力、これが戦いを剣の理に則って行うことの奥深さである。>と解します。
ちょっと自慢っぽいですが、相当な域に達していたことをうかがわせます。
要するに武蔵は、「当てることよりも太刀筋をしっかりと体得せよと」言いたかったと思われます。
時代を越え、剣の修業目的は違えども、剣技の「上達論」においては十分に現代剣道に通じるものと思われます。
最近、新宿剣連では若手指導者による基本指導が行われておりますが、この「基本」を、その場限りのものとして行うだけでは上達はおぼつきません。
その基本をもって相互稽古を行い、それが試合または審査に反映できるよう心掛けてください。
武蔵の言葉をかりて言えば「よくよく工夫あるべし」です。
つづく