前回、「攻めの要点について」で取り上げた、稀勢の里の「稽古を改革して横綱を育てたい」(『文藝春秋』令和元年12月号)には、「メンタルが弱くても強くなれる」の副題が付されていました。
「稽古を改革して横綱を育てたい -メンタルが弱くても強くなれる-」
が全体のタイトルであります。
稀勢の里は、「中毒」といわれるほど基本が好きで、大相撲の伝統をガッチリ受け継いだ基本稽古「四股、鉄砲、摺り足」を、親方となった今でも毎日続けているとのことです。
その稀勢の里が「稽古を改革して」と語るのは、これら伝統的な稽古法を否定してのことか、と思いきや、さにあらず「メンタルが弱くても強くなれる」ことについての一端を述べたものだったのです。
稀勢の里は、本誌で自分のことを「めちゃくちゃビビりで、超小心者です」と、メンタルの弱さを吐露しています。
その上で、こんな自分でも横綱になれたのは、
「小心者の強みは、小心であることを自覚しているがゆえに準備ができることです。だから、別に気持ちが弱くたって構わない。人それぞれ、自分に見合った準備をすることのほうが大事だと思います。」
と述べ、
「私が重視したいのは、心が強いことより脳みそ、考える力です。」
と言い放ち、
「考える力が弱い力士は強くなれません。三役まで出世する力士は、例外なく頭を使っています。もって生まれた才能、素質、勢いである程度までは行けるかもしれませんが、十両、幕内と上がっていくにつれて、考える力がない力士は淘汰されていきます。」
と断言しています。
「考える力」
稀勢の里はこの力によって、横綱への階段を、考え、考え、一歩づつ上り詰めたのでありましょう。
そして、考え続けて行きついた先が「力を抜く」という極意であり、また「平常心」を心がけるということでした、と述べています。
力士にして「力を抜く」か、と、ちょっと驚きました。そして「平常心」、これらは取りも直さず剣道の極意でもあります。
われわれとしては、その中味である、力を抜くための極意、あるいは、平常心を保つための極意、が知りたいところです。
が、曰く言い難し、か、そこに至る方法について具体的なことは何も示されておりません。
これも自分で、よく考える、ということでしょう。
剣道もまったく同じであります。
よく稽古後、指導者の教えを「干天の慈雨」のごとく仰ぎならっている姿を拝見します。
教えを仰ぐことは大いに結構です。しかし、言っておきますが、指導者のアドバイスが慈雨のごとく、直接、上達の芽を潤すことはありません。
やはり自身で考えるしかないのです。
単独動作おける身の配り、正中の感覚、重心、技の造り上げについて、また、相手と対峙しての心組みや攻め、機の捉え方などなど、考えることは山ほどあります。
それもそのはず。
日ごろ何気なくつかっている「稽古」という言葉ですが、稽古の「稽」は「考える」を意味します。「古」は「いにしえ」です。
過ぎ去った時代、また先人の教えを辿り、今一度、本来の「いにしえを考える」の稽古に思いを致すことが肝心です。
稀勢の里、改め荒磯寛氏は最後に、
「引退して思うことは、まだ一割程度しか相撲のことをわかっていないのではないか──ということです。それほど相撲は奥が深い。これからは親方として死ぬまで研究を続け、横綱を育てたいと考えています。」
と、生涯修業について言及しております。
相撲にまけず剣道は奥が深いです。
新宿剣連の皆さん、この稀勢の里にならい「考える力」でもって、生涯剣道をめざし更なる精進を重ねようではありませんか。
つづく