その140 女性剣道の隆盛

 ご多分に漏れず、わが剣道界も「少子高齢化」の波はひしひし押し寄せています。
 その中でも「高齢化」というのは、剣道界全体でしっかり受け止め、〝生涯剣道〟を掲げつつ高齢者ご自身それぞれが、高みに向け剣道の修錬に励んでおられます。

 5月、京都で行われた「第120回全日本剣道演武大会(京都大会)」には私(78歳)も出場しましたが、掉尾を飾ったのは福本修二先生(神奈川)86歳と佐藤成明先生(茨城)85歳の立合でありました。

 また、高齢剣士の審査に臨む姿勢も積極性が高まり、六段・七段の合格者も増加しています。
 八段審査においても60歳代、70歳代のしかも70歳代後半の合格者が出ております。
 ちかぢか80歳代の合格者も出そうな空気も醸成され、更に高齢剣士の受審意欲が高まってきています。

 しかし、一方の「少子化」については、この流れに抗うことは難しく、目下、試行錯誤を重ねている状態にあります。
 子供が少なくなってくる社会情勢の中で、できるだけ多くの子供を剣道に目を向かせる工夫が必要となっています。

 近年、剣道界における女性の存在感は日増しに高まっています。
 前回申しましたように、令和6年(2024年)3月末日における有段者の登録数は2,056,088人です。そのうち女性は621,142人で全有段者数の30%超を占めるようになりました。

 この2~3年の段位審査を見ていると女性が男性に遜色なく合格しています。
 それ以前の審査では、審査員が「剣道称号段位審査実施要領(段位審査の方法)」にある審査の着眼点の一つである「勝負の歩合」を重視しすぎるため、女性の合格を難しいものにしていました。
 『剣道の理念』が「剣の理法の修錬による人間形成の道」であるならば、勝負の歩合だけでなく「理合」「風格」「品位」をどのように幅広くみるか。

 全剣連では、この「理合」「風格」「品位」をどのようにみるか、ということについて六段以上の審査会において、女性の審査にあたって、審査員相互間で認識を共有することとしています。
 要するに六段なら六段、七段なら七段を背負って道場に立てるか、心を乱すことなく端正な姿勢で熟(こな)せているか、という幅広い眼でみていただいた結果でありましょう。

 審査員相互間で認識の共有ができたことによって、実力のある人を見つけ出す鑑定力が備わったというべきか、取りも直さず「審査眼の進化」といえるでしょう。
 八段審査は、まだ女性の合格者は出ていませんが、昨年の5月の審査では1次審査の合格者が1人、また本年5月の審査でも1次合格者が1人出ました。
 残念ながら2次審査では合格に至りませんでしたが、遜色のない立合の内容でありました。
 女性八段誕生に向け、明るい萌しが見えてきました。受審資格のある方はぜひ八段審査に挑戦していただきたいと思います。

 女性の剣道有段者数は全体の三分の一を超えましたが、戦前においては女性の数はほぼ皆無でありました。
 79年前、昭和20年(1945年)日本は太平洋戦争に敗北いたしました。
 私が生まれる1年前です。

 日本は連合軍(アメリカ)の占領下に置かれます。
 この敗戦は、日本古来の武道に壊滅的な打撃を与えました。
 特に剣道は、GHQ(連合国最高司令官総司令部)から国家主義、軍国主義に加担していたという理由で、警察や学校で全面禁止の制裁を受けるなど、一般社会においても剣道の活動は著しく制限を受けました。事実上、日本全土にわたって〝剣道禁止〟状態といってよいでしょう。

占領は6年8ヶ月に及びますが、独立回復のメドが立たぬ時代において、剣道を復活させる活動が閑かに行われていました。
 1950年(昭和25年)3月、剣道は体育スポーツであるとの理念のもと、「全日本剣道競技連盟」が結成されました。
 しかし「剣道」という名称が認められず、「全日本撓競技連盟」と改称ししての発足です。
 フェンシングに似た防具と刃筋も物打ちもない〝シナイ〟。それも「刀」の文字が入った「竹刀」の表現を避け、「撓(しな)う」の字を使いました。

 GHQの強硬さと関係者の気遣いのほどが覗われます。
 そんな恐るべきGHQですが、良いこともしました。
 それは、新しく「撓競技」を発足させるには、「女性も一緒できるものにすること」と指示があったのです。
 「男女平等」を意識してのことであったのでしょう。
  その意向をくんで撓競技が発足しますが、撓競技の時代は長く続きませんでした。
 やがて日本の独立が回復し剣道が再復活したとき、女子剣道の芽吹きとなり、今の隆盛につながっています。

その140 女性剣道の隆盛

「第9回国民体育大会(旭川市、昭和29年8月)に「公開演技」として参加した、撓競技の女子選手。
 全剣連三十年記念史編集委員会編『財団法人全日本剣道連盟 三十年史』全日本剣道連盟(1982年、P39より転載)」

先ほど「独立回復のメドが立たぬ時代」と記しましたが、「全日本撓競技連盟」結成の1950年(昭和25年)3月の時点では、まだまだ占領時代の真っ最中であったのです。
 ところが同年6月、「朝鮮戦争」が勃発します。
 その朝鮮戦争で何があったのか、アメリカは日本に対して占領政策をとる必要がなくなったと判断しました。
 翌年、1951年(昭和26年)9月に「サンフランシスコ講和条約」を締結し、翌年の4月に発効し、日本の独立が回復します。
 独立が回復した以上、堂々と「剣道」の活動ができるわけです。しばらくは「撓競技」と「剣道」の二本立てで活動しますが、やがて「撓競技」は吸収され「剣道」に一本化されます。
 朝鮮戦争の勃発についてはアメリカも日本政府も予想することができなかったのでしょう。独立まぢかに「撓競技」という鬼っ子を生むこととなってしまいました。
 次回は、日本の独立回復を早めた朝鮮戦争のこと、「朝鮮半島で何があったか」について述べてみたいと思います。
つづく

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