その151 「強制連行」について

前回は「日中戦争初期の上海・南京の慰安所設置」について述べ、慰安所の厳格な利用規則を紹介しました。
ところが、入口に憲兵が配置されるなど慰安所の雰囲気があまりにも厳格だったため、兵士たちはこの直営の慰安所に行くのを嫌がったようです。
また日本軍は、皇軍を名乗る自らが慰安婦を連れて戦場に行くのは軍の名誉を損なうということも自覚していたので、軍直営はすぐに民間業者の経営に代わった、とのことです。
また『反日種族主義「慰安婦問題」最終結論』(2024 年 6 月 20 日・発行所:文藝春秋・著者:朱益鍾〔チュ イクチョン〕)の「日中戦争初期の上海・南京の慰安所設置」には、≪上海の日本軍の慰安所設置計画を知った売春業者たちが、女性たちを連れて上海に押し寄せてきたりもした。
1937 年末から、上海や南京などの華中(中国中部)方面の日本軍及び日本の陸軍省の要請に従い、また、稼げるチャンスと捉えた売春業者たちの自発的行動によって、日本軍慰安所が本格的に設置された。
特に 1938 年に日本軍慰安所の原型が確立された。
日本軍慰安所は軍が業者を選定した軍指定のもので、軍がその運営全般を管理・監督し、必要物資も提供する所であった。
軍は利用料金を定め、詳細な利用規則も制定し、慰安所の建物も提供した。≫
などと記され、また同書には「太平洋戦争期の慰安所設置」や「敗戦の危機の中での慰安所設置」などの項目も設け縷々詳しく述べています。
「3 慰安婦強制連行説の形成と隆盛」では、朝鮮人慰安婦強制連行説について、≪この強制連行説は 1990 年代に初めて生まれ、以降、勢いを得たものであり、慰安婦動員が実際に行われた日本統治時代末期にはなかった主張である。また、解放後の約 40 年間においても、韓国人社会に慰安婦は強制連行されたものという認識はなかった。
いや、日本軍慰安婦の存在自体がほとんど認知されていなかった。1950 年代から 70 年代にかけて使用された高等学校の韓国史の教科書では、慰安婦については全く言及されていない。
1982 年から 96 年までの間に使用された国定教科書で初めて「女性たちまで侵略戦争の犠牲になった」と非常に短く慰安婦の存在を暗示しただけである。≫
『反日種族主義「慰安婦問題」最終結論』の著者、朱益鍾氏は 2024 年(令和 6年)7 月 10 日、東京都永田町の星陵会館ホールで開かれた「慰安婦問題を巡る国際シンポジウム」(国際歴史論戦研究所主催)で基調講演し、≪既存の研究者たちが主張してきた強制連行説や性奴隷説にふさわしい、いかなる実証的根拠も確認できなかった≫と述べました。
その上で、慰安婦は民間の娼妓と同様、≪貧賤階層の親権者が、周旋業者から相当金額の前借金を受けて娘の慰安婦就業を承認した年季労働契契約の結果、売春業に進出した女性だった≫と指摘し、
≪ほとんどの女性は前借金を返済するか、契約期間が満了するにつれて慰安所を離れ、新しい人生を開拓した≫と説明しています。
また前出のマーク・ラムザイヤー教授も「慰安婦問題を巡る国際シンポジウム」
で講演しました。同教授は、論文の撤回を求め個人攻撃をしてきた米国の日本史研究者らについて、
≪彼らは日本の文献を読んでいない。これが米国の日本研究の状態だと考えていただきたい≫と指摘し、
≪学者というより人間としての責任として、真実しか言わない、真実しか書かない、攻撃されても絶対謝らないことだ≫と語りました。
〝従軍慰安婦〟について「その 149」から 3 回にわたって述べてきたように〝強制連行〟や〝性奴隷〟というのは、明らかな意図をもっての捏造と思われます。
しかし、まだ幼い 10 代後半から 20 代初めの女性が慰安婦になる場合は、たいていその女性の父母ら親権者が募集業者と交渉して女性を引き渡したでしょうから、彼女らは遠い異郷の戦場に行くことを喜んだはずはありません。
ということで、〝いやいや慰安婦にさせられた〟ことをもって〝強制連行〟と記憶がすり替わってしまった、こともあったと推察されます。
このように、半ば強制的に慰安所に連れて行かれた例も多々あるでしょうが、まずは日本軍による組織的な強制連行はなかったとみてよいでしょう。
とはいっても、今も慰安婦像が世界中に置かれています。

その151 「強制連行」について

今年 10 月はじめ、ドイツの首都ベルリンの公有地に韓国系の市民団体が設置した慰安婦問題を象徴する少女像について、同区が撤去を命じたと報じられました。
その少女像の台座には英語で「第二次大戦中、日本軍は少女や女性を強制連行し、性奴隷にした」
と記されているのです。
ただ、団体側は今後も設置が認められるべきだと主張していて命令どおり撤去されるかが焦点となっているとのことです。
前途多難です。
つづく

一覧へ戻る