小論、昭和59年9月13日付け『警察倫理の確立 -主として剣道の修錬を通じて-』中の「剣道の倫理的意義について」(抜粋)をご紹介していますが、前号の
1.はじめに
2.剣道とスポーツ
に続きます。
*
3.身体の鍛練と健全な精神の問題
「健全な精神は健全な身体に宿る」と昔から言われているが、果たしてそうだろうか。
確かにスポーツによって体力が向上し情緒的健康の増進や道徳的価値は、潜在力ではあるが一応理論的に実証されている。しかし、これには一定の条件が必要であるとされている。それは、
第一に、純粋に楽しむこと
第二に、それによって報酬(道具的価値としての報酬)を求めないこと
である。
この二つの条件を無視して行うならば、スポーツは逆に不健全な精神の温床となるおそれがあると言われている。
J・Eケーン編著『身体と運動の心理学』(太田鐵男訳、大修館書店)によると、体力は情緒的健康と正の相関があるとしつつも、その反面弊害として次のように述べ現代スポーツに警告を与えている。
[スポーツのもつ潜在的な道徳的価値は実証されてはいるものの、勝利の重要性が至上主義的に強調される状況では、結果として、これらの価値が生じなくなるという兆候がある。また、「スポーツマンシップ」「フェアプレイ」「チームワーク」などの価値が、自動的に他の場面に転移するという証明もない。 …中略…
過ぎし年のアメリカ青年にあれほど人気のあった草野球は、高度に組織化された競争的で排他的なリトルリーグやミドルリーグ野球がとって代わってしまった。小都市における情緒的健康のためには、成人の管理する高度に組織化されたレクリエーションプログラムの開発よりも裏庭の遊び場の開発と、一世代前の自然発生的な遊戯精神への復帰の方が、おそらくより役立つことになるであろう。]
スポーツが勝利至上主義で行われるならば、排他的となるのは避けられない。そのような競争社会の中で頂点に立った者が、自己実現をなし遂げた結果、自己肯定を越えて自己の過大視、そして絶対視というものにつながったとき、倫理的にマイナス現象として現れることが指摘される。
またそのような競争社会においては、「健全な身体」と「健全な精神」の相関関係性は認められなくなる。
それでは次に、先ほど述べた条件すなわち「純粋に楽しみ、何の報酬も求めない」という競技スポーツが果たして存在するだろうか。
一見勝利至上主義とは縁がないと思われる、ママさんバレーや老人のゲートボールでさえ、みんなが純粋に楽しんでいるとは思えない。人間は年齢、性別を問わず常に向上心を持っている。そしてその向上心がある限り、試合においては勝ちたい負けたくないと思い、大会などの出場にあたってはそれぞれのレベルにおいて賞杯獲得志向となるのは当然のことである。
そしてレベルが上がって行くほど勝利主義の度合は増してくる。その最たるものがオリンピックである。
では、どうすればスポーツが身体を鍛えると同時に、人の持つ自己顕示性を満足させ、十分な成功感を持ちつつ、しかも倫理観を高く保つことができるのか。
このことを解決することができなければ、ひとかどのスポーツマンと言われる人であっても、その鍛え上げた精神・肉体・技術が、何らかを誘因として起爆薬となり、逆に社会的凶器となるおそれ無きにしも非ずである。
では、高潔な人格と強健な肉体を理想的な状態で同居させるにはどうすればよいのか。
結論を先に言えば、その種のスポーツ競技に求められる技術の法則を、ひたむきに求める精進を重ね続けるということに尽きる。
言葉を換えれば「技術の美」の追究である。
4.技術の美について
人間の運動には技術が必要である。その技術について「美」とはどういうものであろうか。中井正一の『美学入門』(潮日選書)を原文のまま引用する。
[例えば、水泳のとき、クロールの練習をするために、写真でフォームの型を何首枚見てもわかりっこないのである。長い練習のうちに、ある日、何か、水に身をまかしたような、楽に浮いているようなこころもちで、泳いでいることに気づくのである。その調子で泳いでいきながら、だんだん楽な快い、すらっとしたこころもちが湧いてきた時、フォームがわかったのである。初めて、グッタリと水に身をまかせたようなこころもち、何ともいえない楽な、楽しいこころもちになった時、それが美しいここ
ろもち、美感にほかならない。自分の肉体が、一つのあるべき法則、一つの形式、型を探りあてたのである。自分のあるべきほんとうの姿にめぐりあったのである。このめぐりあったただ一つの証拠は、それが楽しいということである。しかもそれが、事実、泳いでいて速いことにもなるのである。無理な力みや見てくれや小理屈を捨て去って、水と人間が、生でぶつかって、微妙な、ゆるがすことのできない、法則にまで、探りあてた時に、肉体は、じかに、小理屈ぬきに、その法則のもつ隅々までの数
学を、一瞬間で計算しつくして、その法則のもつ構成のすばらしさを、筋肉全体で味わうのである。音楽は耳を通して、肉体に伝えるのであるが、この場合は、指先から足までの全体の動きで、全身が響きあっているのである。これがわかったとき、これまでの自分は、他人みたいなものなのである。自分が本当の自分にめぐりあうと、そうなってくるのである。
このように考えると、クロールまでが美学に関係をもってくるのである。…中略…
ところが、この法則は、自然の法則のように宇宙の中にあった法則であろうか。これは人間と水との間に、人間の創りだした新たな法則であって、自然の法則ではない。人間がこの宇宙の中に、自然と適応しながら、自分で創造し、発見し、それを固め、そして発展させていく法則である。これを「技術」というのである。]
このように、人間の技術は宇宙の技術のように完璧のものではなく、つくられつつある秩序である。すなわち人間が一生かかって完璧をめざし、誤っては正され、誤っては正される技術の秩序づくり、これが修行であると考える。
これは個人の内面における秩序づくりであるが、この修行を通じ、しだいに人と人との間の秩序への気付きがおこる。
人と人との法則、すなわち多数個人の並立ということを大前提に置いた上での自己の認識でもある。
以下次号、次の項目に続く
5.美と倫理
6.伝統文化として見た武道の倫理的価値
7.現代剣道の倫理的価値
8.試合について倫理的考察
9.おわりに