8月23日付「最新情報」拙稿号外では、『剣窓』9月号掲載『日本人の知らない武士道』
(アレキサンダー・ベネット著)の書評を転載いたしました。
紙幅の都合もあり、やや言葉足らずでしたが、これが呼び水の役目を果たし、たくさんの方に読んでいただくことができれば幸いです。
ベネット氏は同書で〝日本人は武士道を知らない〟と一喝しているわけですが、それは、ほとんどの日本人が描く武士道が、新渡戸稲造著『武士道』に基づいている点を指摘しています。
ここで、小稿その三「道徳の国ニッポン」で取りあげた、新渡戸稲造が『武士道』を著すきっかけとなったくだりを、ここでもう一度紹介いたします。
新渡戸が青年期、ヨーロッパ留学中に某教授と交わした会話です。
「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」と、この尊敬すべき教授が質問した。
「ありません」と私が答えるや否や、彼は打ち驚いて突然歩を停め、「宗教教育なし!どうして道徳教育を授けるのですか」と、繰り返し言ったその声を私は容易に忘れえない。
当時この質問は私をまごつかせた。私はこれに即答できなかった。というのは、私が少年時代に学んだ道徳の教えは学校で教えられたのではなかったから。
私は、私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析をはじめてから、これらの観念を私の鼻腔に吹きこんだものは武士道であることをようやく見いだしたのである。 (岩波文庫版『武士道』矢内原忠雄訳より)
また新渡戸はアメリカ人女性と結婚していましたが、その妻からもその教授と同じような質問をしばしば受けており、このことが『武士道』執筆の端緒となったといいます。
ヨーロッパ留学から10年ほど後、体調を崩し米カリフォルニア州で転地療養中、英文で『武士道』を書き記します。
1899年、新渡戸が38歳の年です。
1899年といえば明治32年、時あたかも日清戦争(明治27~28年)と日露戦争(明治37~38年)との狭間です。
しかしその背後には、在米日本人移民排斥運動に深い関係があり、アメリカの対日本人観が非常に悪化し、また、白人優越の人種差別観が根底にあったようです。
新渡戸は、「これではならない、日本人はそのようなもんじゃない、なんとかして世界の人に、日本人の精神の核となるもの、日本人の生活を根底から支えているものを知らせたい」という思いで書き上げたとのことです。
その『武士道』が、当時のアメリカ社会から大変な賞賛を受け、続いてフランス語、ドイツ語などにも翻訳され世界のベストセラーとなりました。その後、逆輸入というかたちで日本語に翻訳され日本人の目にすることとなるわけです。
その頃わが国では、日清戦争が勃発すると、「尚武の気風」が高騰し、平安神宮の境内に武徳殿を再興し、全国知名の武術家を集めて武術を奉納することが決められる。
そして日清戦争の勝利は、日本が極東の後進国から世界列強の仲間入りを果たす大きな転機となり、世界の中の日本を意識させる。
また、それとは反対に、日本固有のものへも目が注がれるようになった。
明治28年「大日本武徳会」設立。
時を同じくして、「三国干渉」による遼東半島還付という事態にいたる。これに対し世論は沸騰し、
「臥薪嘗胆」を合い言葉に、国民的尚武の気風の高揚が叫ばれる。
この三国干渉は日露戦争の誘因ともなった。
明治32年「武徳殿」完成。という情勢下にありました。
そんな折、『武士道』が世界から持ち上げられたものですから、書評で紹介した井上哲治郎の声高な論調を借りるまでもなく、にわかに武士道立国的な世論が膨らんでいったことは想像に難くありません。
そこに、新渡戸の切実な思い、と、それを読んだ米欧人の共鳴、そして『武士道』を手にした日本人の
勇み立った感情との間に、大きなギャップがあったと言わざるをえません。
このような時代背景のもと、武士道と不可分の関係にある武道がしだいに注目の度を高めていきます。
他方、明治の比較的早い時期より政財官学民の有志から武道の正課編入運動が展開されていましたが、賛否両論が錯綜し、日の目を見ぬまま日露戦争に突入します。
そして、日露戦争に勝利。
その戦勝ムードさめやらぬ明治40年(1907)、帝国議会において「中学程度ノ諸学校ニ体育上正科トシテ、
剣術・柔術・*練胆操術(木剣体操)孰レカ其ノ一ヲ教習セシムヘシ」と可決いたしました。
そして明治44年(1911)に「中学校令施行規則」が改正され、「撃剣及柔術ヲ加フルコトヲ得」と定まり、中学校の正課教材に採り入れられることとなりました。
一方、剣道の海外での活動状況ですが、戦前においては二つの流れに大別されます。
その一つは移民であり、アメリカ・ハワイ・ブラジル・カナダといった国へ移住した人たちの中の剣道愛好家が日系人社会に広め継承していったものです。
もう一つの流れは、日清・日露戦争の後、日本の統治下にあった台湾と朝鮮半島で、本土から剣道専門家が派遣され学校や警察などで指導に当たりました。
しかし、これは海外での活動というより、国内的にあるいは国内として、それぞれ当地に広がっていったといってよいでしょう。
このように戦前においては、日本から海外へ剣道を積極的に広めようという顕著な動きはなかったようです。
戦後は、数年間の活動空白期を経た後、武道色を抜き去り純粋スポーツとして復活を果たすこととなります。
当然ながら当初は、海外に目を向ける余裕などなく、国内での普及に全力を傾けている状況でした。
剣道が「国際」というものを意識する契機となったのは、昭和39年(1964)の東京オリンピックでした。
つづく
* 「練胆操術」とは、脳への危険性を除去するとともに、国内の剣術流派を統一し、一斉指導を可能とするために考案された剣術体操法である。
当時、衆議院議員であった剣術家の星野仙蔵が考案したものだが、西洋体操法に取って代わろういうもくろみもあったため、明治44年「中学校令施行規則」改正時には、時期尚早という扱いにとどまった。