いよいよ本題に入ろうと思ったら、今度は男子バトミントンの有力選手が違法な闇カジノ店でバカラ賭博をしていたことが発覚しました。
「またスポーツ選手の…」、なのですが、この件に関しては少し立ち入って述べておきたいことがあります。
あるスポーツ紙によると、そのバトミントン選手の一人について昨年の収入は、国際大会で獲得した賞金が約2500万円、企業の社員としての収入が約450万円、スポンサー契約料、日本スポーツ振興センター(ISC)のアスリート助成金(年90万円)が絡めば、この1年の収入は約3000万円とみられると報じています。
この金額は、筆者の頭の中にあるアマチュアスポーツ選手の収入額としては予想をはるかに超えるものです。
他人の収入についてとやかく言うつもりは毛頭ありませんが、高収入ゆえ賭博への潤沢な賭金となっているとしたらゆゆしき問題です。
こんな人たちにメダルを取って帰ってもらっても、嬉しくもなんともない、と声を荒げて言いたいところです。
報道によりますと、
「競技で培われた負けん気と、金銭感覚のマヒ」
「勝つことが大事だと育てられたスポーツ選手は総じて負けず嫌い」
「スポーツ選手は勝負事が好きで、何かで勝つことで大きな刺激を受ける」などと伝えています。
そして、
「勝つことはスポーツの中では大切なことだが、気分転換などをする際に誤った方向に行ってしまうリスクがある」
「選手に対して大人としての自覚や、日本を代表していることの自覚を促す必要がある」
「スポーツで結果を残せばいいとされがちな風潮をなくし、もっと社会的責任について教えていくべきだ」
など、相も変わらず決まり切った論調がくり返されています。しかもそれらの口ぶりには
〝スポーツ選手が賭博に向かう心情に無理からぬものがある〟
と言いたげな心情が潜んでいるように思えてなりません。
また、あるメジャー競技種目のチェアマンは、「これを他山の石として」などと賢顔して宣っておられました、が、どうも他山ならぬ他人事としか響いてきません。
もっとも、「明日は我が身」などと畏まるのもいささか能天気に過ぎるかとも思いますが…。
しかし中には、「性善説に立った選手教育には限界がある」と、スポーツの意義そのものの無効性に言及する意見もみられます。
さらに、「もともとスポーツは賭博と親和性が高い」と、極めて現実的に見定めている向きもあります。
健全であるはずのスポーツと不健全とされる賭博、この両者の親和性とは何か。
それは〝勝負を争う〟ことにほかなりません。
偶然性が高いか低いかの差はあるにしても、賭博もスポーツも〝勝負に関して財物の取得を争う〟ことであり、当事者の胸中に宿すものに相違はない、ということでしょうか。
このようにスポーツと賭博とを親和性という語でくくりつけてしまうならば、前回取り上げた「スポーツの意義」は全く意味をなさないこととなってしまいます。
しかしながら、先ほどの性善説の返上も含めて大きく頷ける話があります。
*ユウェナリスが唱えたとされる「健全なる精神は健全なる身体に宿る」の至言は、実は誤訳されたものであり、本来は「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」と皮肉った言葉であったとのことです。
もしそうであるならば、この際割り切って、あらゆる競技の選手にはスポーツの意義に掲げる徳目には期待せず、あくまで選手に対して管理者側が教条的に、
「自らの立場を認識させる」
「選手として守るべき社会的ルールを指導する」
などして行動の自制を求めるということを徹底して行うことことの方が手っ取り早いといえましょう。
西洋においては宗教が厳然と教育的役割を果たしていますから、ユウェナリスが皮肉るようにスポーツに人間形成的な意義を求めなくても一向に差し支えないわけです。
しかし、おしなべて宗教教育が施されていないとされるわが国においては、このような割り切り方のスポーツ観で大丈夫なのでしょうか。
何年も前の話になりますが、拙談H23.7.25その九『「道」について』で、少しくこのことについて記しました。
本文を抜粋しますと、
<日本人は、とかくのことに「道」をつけることによってその道徳的意義を問い、人格の形成と大きな関わりをもたせてきた>
<わが国ではこの「道」の思想が根底にあるゆえに、ことさら特定した宗教の信仰がなくても国民はおしなべて道徳的であり得た>
<武道や芸道における「道」は、技術上達と人間形成と結びつけ、身体と心あるいは技と心を一体のものとしてとらえようとする思想である。>
<また、こういった日本人の心性は、外来のスポーツを行う場合であっても「野球道」や「サッカー道」と呼ばれるように、それぞれ人の「道」として条理を求めてきた>
<翻って考えてみると、「宗教教育がない」といわれるわが国に、「道」が衰退したら国民の道徳心が地に落ちるのは当然である>
としています。
最近では、国技・相撲もことさら言をつよめ「相撲道」と呼ぶようになってきているように見受けられます。まだ、バトミントン道という言葉は耳に馴染んではいませんが、「道」をつけて呼ぼうがつけまいが、道の観念は日本人のDNAに深く組み込まれ現在に至っていると考えるものです。
このように「道」的に行われてきたわが国のスポーツですが、2020年の東京オリンピックを目前に、ますます激しくなると予想される勝利主義の下、どのような選手強化が展開されていくのでしょうか。
また心配の種が増えました。
つづく
*ユウェナリス
ローマの諷刺詩人。爛熟したローマ社会の悪徳と愚行を痛烈に諷刺した16編が伝存(60頃~130頃)。(『広辞苑』より)
平成28年4月15日