7月3日の講話の最後に「日本人の〝かたち〟をとりもどそう」のお話をしました。
その中で、藤原正彦さんの言説を借りて、「有無を言わさず守らせる」という型に嵌(は)める教育を推奨しました。
子供の教育には論理は必要なく、悪いことには、理由など告げず、「駄目だから駄目」ということに尽きると申しました、が。
あの講話は時間の都合で、尻切れトンボに終わってしまっていたのです。
実は最終章があったので、以下、付け加えさせていただきます。
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先のお話で、日本の伝統文化は「型の文化」と申しました。
修行の過程には「守・破・離」の段階がありますが、この型に嵌める教育はこの中で「守」に相当する段階です。
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守破離
剣道修行上の段階を示す教え。
「守」は指導者の教えに忠実にしたがって学び、それを確実に身につける段階。
「破」は「守」の段階で学んだことについて、工夫を凝らし、さらに技術を高める段階。
「離」は「守」、「破」といったことを超越して、技術をさらに深め、独自の新しいものを確立していく段階。
全剣連発行『剣道指導要領』「主な剣道用語」より
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この「守」と「破」について、人間の成長過程に当てはめて考えて見ましょう。 人が生を享(う)けこの方、人間社会や集団で生きて行くための規範意識や礼儀作法などを身につける段階が「守」といえましょう。
それらを身につけるための訓練は、「しつけ」にあたるものです。
衣類の折り目や縫い目を正しく整えるために縫う糸を「しつけ糸」と言いますが、子供の「しつけ」は、まさに「しつけ糸」のごとく、型に嵌める教育であります。
しかしこの「型」ですが、いつまでも嵌まっているだけでは、一般社会で生きて行く上でなかなか通用いたしません。
理不尽が横行する俗世間で生き抜くには、型を変化応用させることが大切です。 修行で言えば「破」という次の段階に高める必要があるのです。
実際、服を着るときには「しつけ糸」を取って着用し街に出かけるように。
それと同じで、規範意識や礼儀作法が身につくと、意識し、しゃちこばらなくても社会や集団に応じた立ち振る舞いができるようになります。
それが「破」の段階といえるでしょう。
要するに、レベル、レベルで「守」と「破」を繰り返すのが、人間の成長あるいは技術の上達の道すがらではないかと思うものです。
「離」については、わたくし齢七十五にして、未だ人間的にも剣道の技倆的にもこの域に達することができていませんので論じることを控えさせていただきます。
「しつけ」は漢字で「躾」と書きます。
「身」「美」に思いをこめて。
頓真
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「頓真」と「井蛙剣談」について
「頓真(とんま)」のペンネームで「井蛙(せいあ)剣談」を書き綴っていますが、「頓真」の名は、鎌倉・南北朝時代の歌僧で「井蛙抄」を著した「頓阿(とんあ)」(1289~1372)の「頓」と真砂の「真」を合わせたものです。
「井蛙抄」は、頓阿が著した6巻に及ぶ歌学書で、古代・中世の歌論書の所説を集成し、さらに師二条為世からの聞書や当時の歌壇の逸話を集めたものです。
その「井蛙抄」にあやかり「井蛙剣談」では、「井の中の蛙大海を知らず」と自嘲しつつも、「井の中は誰よりも知っている蛙」とうそぶき、書き進めております。
剣道書と言えるかどうか疑わしいかぎりですが、拙き指導の一環とお受け止めいただければ幸いです。