このたび「心技体・人を育てる総合誌」として(公財)日本武道館が発行する月刊『武道』連載の「私の修業時代」第53回に私が指名され執筆しました。この月刊『武道』2024年9月号に掲載された拙稿を号外「井蛙剣談」として転載いたします。
私の修業時代
全日本剣道連盟副会長 真砂 威
剣道は生涯修業といわれており、本年78歳になる私もまだまだ修業中の身であります。ところが古希を過ぎたころ大病(膀胱癌)を患い全摘手術を受け、約半年間の闘病生活を余儀なくされました。剣道の稽古は約1年間、休止しました。休止中は足腰の衰えを取り戻すべく歩行やトレーニングを心がけ、また木刀(竹刀)での素振りを重ね稽古再開に備えました。しかし、いざ稽古を再開すると、罹病による体力の低下は否めず、また老化も進んだこともあり、以前に比べ稽古量は大幅に少なくなりました。これから「生涯剣道」を全うできるかどうか不安はありますが、年齢や体力に応じた修業を末永く続けたいと思っています。本稿では、私の価値観を一変させた恩師との出来事や警察大学校時代に稽古不足を補うために行った修業などを紹介いたします。
演武大会に出場
例年5月2~5日、京都市の「武徳殿」(※1)において「全日本剣道演武大会」が開催されます。この大会は、各種流派の形、薙なぎ刀なた、杖道、居合道の演武にはじまり、剣道高段者(※2)による立合が行われます。
本大会は、「大日本武徳会」(※3)が明治28(1895)年に創設以来、「武徳祭大演武会」として行ってきたもので、太平洋戦争の戦中・戦後に一時期中断した後、全日本剣道連盟がこれを継承し今日に至っています。
この大会は高段者にとって1年間積んできた修業の総決算というべき晴れの舞台であり、また全国各地から集まった剣友諸氏にとって、年1回の交歓あるいは同窓会の場ともなっています。
立合は一応試合方式をとりますが、単なる優勝試合とは一線を画します。まず、勝敗の行方に一喜一憂する一般の大会と違い、立合前後の礼儀作法を含む全ての立ち居振る舞いに審美の目が注がれます。
立合においては双方が合気を旨として剣を交え、しかも有効打突の取得という結果を最優先させるのではなく、有効打突を生み出すまでの「間合」「気勢」「攻め」といった手順が重要視されます。また、技を打ち出す「機会」から「打突姿勢」「決め」そして「残心」という技の完結に至るまでの一連のプロセスが尊ばれます。
それは古人が、武術という争いごとの域を超えて、剣に道を求めた武士文化の精華であるといえましょう。まさに「剣道の理念」(※4)の体現をめざすものです。
令和6年は第120回という節目の本大会が、3680名の参加者を得て盛大に開催されました。私も末席を汚させていただきましたが、掉尾(ちょうび)を飾ったのは86歳同士の意気軒昂な立合で「第120回全日本剣道演武大会」が締めくくられました。
注
※1 武徳殿:「明治28(1895)年、平安遷都1100年祈年事業であった平安神宮造営と時を同じくして、大日本武徳会の演武場として武徳殿の建設計画が持ち上がります。そして明治32(1899)年、故事にちなんで平安神宮の北西の地に武徳殿を竣工しました。その後は武術教員養成所(後の武道専門学校)も開設され、『東の講道館、西の武徳殿』と評されるほど日本の武道の中心的存在となっていくのでした。」(「京都府剣道連盟ホームページ」より)
※2 剣道高段者:剣道六段以上の序列は、六段⇨錬士六段⇨錬士七段⇨教士七段⇨教士八段⇨範士八段の順で、本演武大会の出場資格は錬士六段以上となっている。
※3 大日本武徳会:戦前、武道の振興・教育・顕彰を目的として活動していた。
※4 剣道の理念:「剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である」(昭和50年3月20日制定 全日本剣道連盟)

第120回全日本剣道演武大会での立合
(筆者は見日、令和6年5月)

第120回全日本剣道演武大会が行われた武徳殿
剣道との出会い
私が剣道を始めたのは中学1年生(昭和34〈1959〉年)です。動機は、われわれ高齢剣士のご多分に漏れず、「赤胴鈴之助」(※5)に憧れ剣道部に入部しました。爾来65年。これまで多くの先生方に指導を受けましたが、
私の人生において最も強い影響を受けたのが木戸高保先生です。私の母校は近畿大学ですが、木戸先生は私が大学2年生のとき剣道部の師範としていらっしゃいました。木戸先生は武道専門学校(武専)出身であり、兵庫県警察に剣道指導者(後に主席師範)として奉職され、当時警察学校で教鞭を執っておられました。
当時50歳ぐらいでしたが、年齢よりも相当若く見え、全身に活力が満ち満ちている感じでした。表情も柔和で誠実感にあふれていました。しかし内面に頑なさを潜ませているという印象も同時に受けました。
立派な剣道の先生ということは一目でわかりましたが、少々堅苦しく、近寄り難い存在でもありました。また、当時の高度経済成長期にはおよそ不似合いともいえる、先生の全身から醸し出される貧乏くさい雰囲気に、正直いって尊敬とは反対の感情を持ってしまいました。
木戸先生の風采の上がらぬ姿に、「剣道を長年修業した挙げ句がこれか」と、夢が壊された思いがしました。別に反抗的というわけではないのですが、しばらくは新しい師範を遠巻きに眺めていたところがありました。
注
※5 赤胴鈴之助:「武内つなよしの漫画『赤胴鈴之助』の主人公。本名は金野鈴之助。父の形見の赤銅を着け、師の千葉周作やその娘さゆり、母お鈴らに見守られ、剣の道に励んで真空切りの秘剣で悪人たちと戦う。昭和29(1954)年から「少年画報」に連載。ラジオで放送されて人気を得、映画、テレビアニメにもなった。」(「情報デジタル版 日本人名大辞典+Plus」より)
師の教え
ところが3年生の夏合宿で、私の価値観を大きく一転させる出来事がありました。その合宿は長野県の松本市で行われたのですが、学生以外の師範、監督、OBなどは寝泊まりに近くの旅館を用意されているにもかかわらず、木戸先生は1週間の合宿期間中、道場で学生と起居を共にされたのです。
すでにそのころの私は、木戸先生に幾度も稽古をつけていただき、赤心あふれるいつわりのない先生の人となりに親しみを感じ、以前のイメージも払拭され、徐々に尊敬の念に転じつつある時期でもありました。
午前6時、「ホイッチー、ニーッ、サンッ!」先生自らのかけ声。ピシッと型が決まり、気合がこもった素振りの示範で朝稽古が始まります。剣道形・基本・掛かり稽古・地稽古・ミーティング、そして夜のくつろぎの時間まで先生は学生と行動を共にされました。文字どおり「師弟同行」です。師範と学生が剣道一色に染まった濃密な時間を共有することにより、さまざまな教訓を得、大きく感化されました。
そして合宿最後の日は道場の大掃除でした。先輩面した私は、竹刀を片手に後輩をどやしつけながら見回っておりました。すると便所にさしかかったとき、袴の股立を取り一心不乱に掃除している人の姿が目に入りました。「あっ、木戸先生!」。素手で雑巾を持ち、舐めるように便器を拭いておられる姿を目の当たりにし、私は電撃に打たれたようにその場に立ち尽くしてしまいました。呆然と立ちすくむ私を見た木戸先生は、「武専ではいつもこれでやらされとったよ」と如在ない。私は、水洗便所ならいざ知らず、溜め込み式のしかも年季が入り変色した便器を素手で拭くなんて信じられませんでした。小便器の簀の子などもヒョイと指でつまみ上げ、たわしでゴシゴシと洗われるのです。とにかく、驚きました。先生に後光がさした瞬間でした。
あの1964東京オリンピックの興奮冷めやらぬ高度経済成長期の競技スポーツ絶賛の時代に、どっしりと腹を据え、時代の移り変わりに惑わされず、黙々と己の修業道を歩まれている姿に「武士」の再現を見ました。

木戸先生と筆者。兵庫県警察学校卒業式
(昭和45年12月)
警察官へ
木戸先生に感化された私は、昭和45(1970)年に兵庫県警察に奉職しました。警察では、機動隊勤務のかたわら「特練」という選手生活を10年余り送りました。自分の好きな剣道が目いっぱいできるという喜びに浸る日々でした。
昭和59(1984)年に指導職となり、警察署などの巡回指導や特練の監督などを経験しました。この与えられた仕事を天職と考え、生きがいをもって指導に取り組む毎日でした。特練時代は名選手といえる活躍はなかったですが、指導の方は自分に向いていたのでしょうか、突然人生の一大転換期を迎えることとなりました。
平成5(1993)年3月、警察庁へ出向。警察大学校勤務を命ぜられました。46歳の年でした。
それから14年間、剣道教授として、また行政担当者として重責を負った勤務環境のもと、紆う余よ曲折の道のりをなんとか乗り越え、平成19(2007)年3月、無事退官しました。

第31回全国警察剣道大会に大将で出場。第1部決勝戦で警視庁と対戦し、大将戦を制して兵庫県警察が優勝する
(昭和58年11月・日本武道館)

同上の表彰式。表彰状を受け取る筆者

現在の警察大学校正門(東京都府中市)
ひとり稽古の励行
話は戻りますが、警察大学校勤務となってからは稽古量が極端に少なくなりました。最難関といわれている八段審査の受審も間近に控えております。この道で生きていくためには八段取得は不可欠です。稽古不足を補うための修業は専ら「ひとり稽古」に負うこととなりました。
ひとり稽古では、剣道で一番難しいとされる「有効打突の身体表現」。つまり技が決まった型をつくる修錬を重ねました。
送り足、踏み込み足で身体移動しつつ、両手で竹刀を把持した身体がぶれることなく振り切る練習です。時にはスローモーションで行い、しっかりした型とバランスのとれた身体感覚を身につけることに努めました。
それはちょうど自転車の遅乗り走行のようなもので、初心者は倒れるのを恐れ、できるだけ速度が出るようにぎくしゃくとペダルを漕いでいたのが、上手になっていくにつれ走行がゆったりとなり、遅乗りもできるようになります。まさに「人車一体」。同じように、われわれ剣士が求めるべきは「気剣体の一致」なのです。
これは、早く、速くと急ぐ打ち合い稽古によって崩れた形を矯正するとともに、ゆったりとした技能を身につけるのにうってつけです。
〝ゆっくり技〟の体現、即ち「気剣体の一致」の体得と考え、太極拳の動きを思い描き〝ゆっくり技〟をつくり上げていきました。
〝ゆっくり技〟そのものは武術としての用をなしません。しかし、ゆっくりとぶれることなく濃密な描線で移り動く技能を体得すれば、実戦において対者の技の起こり頭などの打つべき機会、〝いま〟 〝ここ〟に寸分の狂いもなく「間に合う」身動きの打突となることを信じての修業でありました。
銃口から発射された弾丸が発射後は修正が利かないのと同じように、一気に発された打突部位へまっしぐらの技は、速さはあっても打突動作の途上、軌道修正が利きません。その反対に、〝ゆっくり技〟は技を発した後も相手の動きに応じて誘い導くことができるのです。「言うは易く行うは難し」ですが。
その甲斐あって、平成8(1996)年11月の八段審査に5回目の挑戦で合格することができました。50歳でした。
合格を一番喜んでくださったであろう木戸先生には、合格の報告は間に合わず、平成7(1995)年12月に亡くなられました。今の私と同じ、享年78歳。
これからは木戸先生の教えに感謝しつつ「師弟同行」、師匠の分まで修業道を歩む所存であります。
プロフィール
真砂威(まさご・たけし)
昭和21(1946)年、広島県生まれ。近畿大学中退。45(1970)年、兵庫県警察官拝命。57(1982)年、兵庫県警察剣道教師。平成元(1989)年、同師範。5(1993)年、警察庁出向、警察大学校術科教養部教授。12(2000)年、同主任教授。18(2006)年、同術科教養部長。19(2007)年、警察庁退職。17(2005)年から全日本剣道連盟理事、常任理事を歴任、令和2(2020)年から同副会長。剣道範士八段。
